まさかの三日坊主を克服した田邊裕貴です。
びっくした。
今日も早起きできた。
多分今日は珈琲も入れられるし、朝ごはんも食べられるし、昼ごはんも作る余裕がある。Blogも更新できる。
現に珈琲と朝ごはんは完了した。
午前6時22分
余裕があるって最高やな。
ほな哲学の話しよか。
三木清 『哲学入門』
朝から重いなぁ!
って思った人は夕方にでもゆっくり読んで下さい。
この本まだ15ページぐらいしか読んでないんやけど、それだけでもめっちゃ考えさせられるぐらい濃いねん。
さすが哲学
ちなみに著者の三木清さんの事は確か姫路の文学館で知った。
まず哲学とは何かって話をされてるんやけど
すべての学は真理に対する愛に発し、真理に基く勇気を喚び起すものでなければならない。本書を通じて私が特に明かにしようとしたのは真理の行為的意味である。
こういう感じやねんな。
すべての学は真理に対する愛に発し、真理に基く勇気を喚び起すものでなければならない。
めっちゃかっこええやん。
これBlogで紹介するには不向きやと思うけど、是非読んで欲しい本なんよ
で、今日紹介したい文章は
現実は我々に対してあるというよりも、その中に我々があるのである。
我々に対してあるものは哲学の言葉で対象と呼ばれている。現実は対象であるよりもむしろ我々がそこに立っている足場であり、基底である。或いは一層正確にいうと、現実が対象としてでなく基底として問題になってくるというのが哲学に固有なことである。科学は現実を対象的に考察する。しかるに現実が足下から揺ぎ出すのを覚えるとき、基底の危機というものから哲学は生れてくる。哲学は現実に就いて考えるのでなく、現実の中から考えるのである。
これ。
哲学っていうのは現実が行き詰まった時に始まる。
的な。
出発する時点から視野広いんよな
ひとつの現実として現実の中にある人間が現実の中から現実を徹底的に自覚してゆく過程が哲学である。
哲学は無知と全知との中間であり、無知から知への運動である。不完全性から完全性へのこの運動は愛と呼ばれた。哲学は、それにあたるギリシア語の「フィロソフィア」という言葉が意味するよう
まだ知っていない部分について知り、その知識をすでに知っている部分の知識に附け加えることで問題がなくなるというような関係にあるのでなく、持っている知識が矛盾に陥ることによって否定され、全く知っていないといわれるような関係にあるのである。現実の中で、常識が常識としては行詰り、科学も科学としては行詰るところから哲学は始まる。
別に知らんかった事では無くても、この本読んだら整理出来る。
この本の良さを言葉で上手く表せへんけど
これめっちゃ勉強になるねん
間違いなく視野広がると思う。
これを文章に出来る三木清さんはどれだけ頭ええねん
って悔しなったわ。
ほんで分からへんから同じとこ何回か読み直したりするんやけど毎回発見があるねん
どれだけ濃いねんって話。
哲学とか興味あるっていう人は是非読んで欲しい。
なんでこんなにおすすめするかっていうと
AmazonでKindle版0円やねん
絶対後悔せぇへんと思う。
夜眠れへん時にも活躍すると思うし。
これ以上俺が何書いても薄いようにしか感じられへんから今日はこの辺にしとくわ
あ、今日言いたかった事は
現実見ようぜ
って事。
哲学やなぁ
Fin.