のぉ れいん のぉ れいんぼう

田邊裕貴の見た色々を雨のように、あなたの中に今まで無かったものを

のぉれ

天才たなべの大冒険

感想戦

ブログに何を書けばいいのかもう分からなくなっています。

それでも更新するとちらほら毎回楽しみにしてるとか言ってくれる人もいて、

それはまじで有り難い話なんだが皆はこのブログに何を読みに来ているのか

それはとても考えて、考えた末に何も思い浮かばない。

俺の心はブログという媒体から離れているようです。

じゃぁ今自分が何に興味を持っているのかというのも分かりません。

 

成りたくなかった大人になってしまいました。

 

後で読み返したらこの記事書いたとき病んでたんやろなぁとなると思います。

ブログというのはもうそこに最大の価値がある気がしてきました。

 

私はSNSで病み投稿してる人の事を全力でバカにするようなタイプなんですが、

それは俺がブログでやってる事と違いがあるのか

 

一緒やないか、と

もう何も書けなくなるんですね。

 

自分の中にそれを否定する理由があったとして、

それは今書いてる文章に宿るのだろうか、多数の人間が"そこ"を読むのだろうかと考えるとクソゲーなんよ

 

 

しかしながらあくまで最高に内的な文章を残す事で過去の自分に救われた前例がかなりあります。

だから消したりしない。

 

 

 

 

 

今田邊はまんまと撮影を生業にしている訳ですが

上京してからの過程でそれまで持っていなかった知識を沢山取りました。

知恵はとてもいい。

面白いものをもっと面白がれるようになる。

 

 

なんでもかんでも面白がる事はとても難しい。

全知全能の人間がいたらこの世の何が面白いのか全部聞いてみたい。

 

 

 

 

勉強して見えてきたのは、多くの人間は「演出」に関してとても鈍感であるという事です。

きっとこのブログを読んでるあなたもそうです。

何故か人は自分のセンスを固く信じている事が多く、いくつもの演出を無視してはその固い物差しでなんでも計ってしまうからです。

君が見てるのは演出でもストーリーの重みでもなく大抵はあなたの人生です。

 

そう思ってしまうので田邊はあまり感想を口に出来ません。

感想と言いつつ作品に自己を勝手に投影する自分を見るのが嫌いだからです。

それは感想の真似事ではないのかと

 

 

「Let it Be」っていう「ありのままで大丈夫」みたいな考え方と、

ポリティカル・コレクトネス」っていう人に誤解させぬように公正で中立的な表現をしようっていう考え方を

誤解した側の人間が武器にしているのをよく見ます。

 

 

感想のために表現を変えるなんて意味分からないだろ

 

君がその人生を綺麗に投影出来た作品だけが表現規制の対象にならないのは虫が良すぎる。

 

 

 

表現とはあくまで内的な、その内にしかない面白さや怒りを提示して分からせるというゲームであり、誤解は後出しの必殺技であってはならない。

 

演出を無視してはいけない。

これは勝負なんです。

 

我々はお互いに曇りのない最善手を探すべきなんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

Fin.