のぉ れいん のぉ れいんぼう

田邊裕貴の見た色々を雨のように、あなたの中に今まで無かったものを

のぉれ

天才たなべの大冒険

応援の品格

今日はちょっとその品格を問いたいと思う

応援地獄へようこそ

 

どうも田邊裕貴です。

 

目次

 

 

応援地獄へようこそ

まず、応援には質がある。もちろん量もある。

質の悪い応援を大量に受けるのは端的に地獄である。

 

辛いだけではない。応援からは抜け出せないのだ。

考えてみると応援とは基本的に一方通行だ。

質の善し悪しに関係なく「応援されること」は拒絶出来ないのだ。

 

といったように、

今日はいかにして応援するべきなのか、されるべきなのか、というような事から

応援の本質を考えて行きたいと思う

あくまでもこれから書くのは個人的な意見であって、応援の品格を問うても答えは千差万別であるだろう。

 

抜け出せない地獄

確かに応援から抜け出すのは不可能ではない。

「応援するのはやめてくれ」と言えば抜け出せるかもしれない

しかし応援とは人の善意によって行われるものであって、人の善意を踏むという事は社会で生きていく上で非常にリスクの高い事であり

ましてや今日のSNSの普及を見るとその危険性は現代人なら理解できるはずだ。

更に、質の悪い応援だけから逃れるという事は難しく、自分の支えになっていた応援まで遠ざけてしまう事になりかねない。

 

拒絶する事は賢明では無いのだ。

 

応援の仕方を間違えれば、その影響が大きければ大きいほど

その分相手に地獄を見せることになるのだ。

 

応援の真の力は積もる事にある

応援される人というのは応援したくなる人であり、

あなたが応援している人は、あなた以外にも応援されている可能性が非常に高い。

つまり相手は、あなたが少なからず与えた影響の何倍もの影響を既に受けている可能性が高いのだ。

もちろん、質の良い応援ならそれは全く問題無い。

しかしもし、あなたが軽い気持ちで質の悪い応援をしていたとしたら、応援を受けた当人は既に相当数のそのような応援によってダメージを受けている事も考えられる。

 

応援の危険性は理解して頂けただろうか

 

 

応援とは信頼の上に成り立つもの

応援とは、される側に、する側の予想に反した影響をもたらす事がある。

これが質の悪い応援である事は明白である。

何故ならそこには信頼は生まれないからだ。

 

自分の事を理解してくれない相手を信頼する事は余程人間の出来た人でなければ難しい。

相手は善意を振りまいているが、自分にとってそれが善で無い時

人間は相手を無責任に感じてしまうものだ。

こんな状態が応援のあるべき姿であろうか。

 

「頑張れ」の危険性

これは感じた事のある人も多いのでは無いだろうか

「頑張れ」という言葉は頻繁に「応援している」という意味で使われるが

残念ながらその意味がそのまま伝わらない事もある。

「頑張れ」とは結局、命令なのだ。

 

言葉を受けた側は時にこう感じるだろう

「既に頑張っているものを、何を頑張れと言うのか」

 

これは典型的な質の悪い応援の状態であり

これが積み重なる事を考えれば ”地獄” という表現は適当では無いだろうか

 

応援とは

「常に助け」 でなくてはならない

一時的であってはならない。

そして道具であってはならないし、目的であってもならない。

 

「常に」と「助け」

 

この2つの要素のどちらかが欠けてもいけない。

どちらかが欠けるとそれは応援ではなく負担になってしまうのだ。

両方が欠けるのは言語道断である。

大事な事なのでもう一度言っておきたい

 

応援とは常に助けで無くてはならない

 

「助け」とは

助けとはすなわち、助長する事であり「代行」または「提供」である。

つまりは今その人が歩んでいる道を歩き安くする事であり、歩かせる事ではない

 

歩くかどうかは最終的に本人が決める事である

 

一番大きな落とし穴

そして「代行」「提供」なら何でもいいのか

という所が応援の一番大きな落とし穴である

 

何を代行し、何を提供するのか

という事が応援の質を大きく変える。

 

例えば先程の「頑張れ」という言葉の質が何故悪いのかというと

答えは応援された側が感じた事の中にある

 

「既に頑張っているものを、何を頑張れと言うのか」

 

頑張るかどうかは本人が勝手に決めればいい事であって

このような命令は、判断を代行している事になるのだ。

これは道を歩きやすくしている訳では全くない。

むしろこれは判断を奪う事であり

判断を奪われる事は自ら歩こうとしている人には大きな負担である。

 

以上のように

してはならない「代行」や「提供」がある。

 

してはならない「代行」

  • 判断を代行してはならない

繰り返し言うが、

精神面や判断というものは代行してはならないし、代行出来るものではない

 

出来ないものを強引にやれば、そこに抵抗が生まれるのは当たり前のことだ。

 

してはならない「提供」

  • 目的を提供してはならない 

 判断と同じように、目的も本人が決めたもので無ければならない。

既に歩いているのは、歩く目的があるからであってわざわざ別の目的を与えて何になるというのか

歩く目的を与える。という事は歩かなければならない状態を作ってしまう事であり、

結果的に歩かせる事になる。

また、歩く道すら変えさせかねない。目的を与えるとは、非常に危険で責任の重い行為なのだ。

 

気をつけておきたいのは応援される事を目的にさせてはいけないという事。

「応援されているから頑張っている」という状態は互いに負担が大きい事はお分かりいただけるだろう。しんどい事を頑張り続けられるのは努力の天才だけだ。

 

何度も言う、

歩くか歩かないかは本人が決めなければならないのだ。

 

 

 

 

では逆に、どんな「代行」や「提供」が出来るのか

応援の具体例

  • 祈り

祈り、というのはとても使い勝手の良い応援だ。

だが、ほんの少し言葉を間違うだけで意味は大きく変わる

例えば、「祈ってるから」という言葉は多少なりとも目的を与えようとする傾向があるし、

間違っても相手にも祈ることを求めてはいけない。

 

  • ありがとう

歩くには勇気が必要で

ありがとうは最強の勇気付けの言葉である。

これは相手が何かしてくれたから「ありがとう」ではいけない。

それは相手の目的を揺るがしかねないからだ。

この「ありがとう」は相手の存在自体に感謝する「ありがとう」なのだ。

 

  • 進路のアイディアを提供する

先程も出てきた「何を頑張れというのか」という状態を解決すればいいのだから

何を頑張ればいいのか伝える、というのは有効である。 

ただしここでもアイディアを使うか使わないかという判断は相手に任せるべきだ。

だが判断するのに必要な知識は提供してもいいだろう。

 

  • 最悪を想定するという代行

最悪の事態を想定する事を好んでやりたがる人は少ないだろう

そういう所こそ、応援の真価が問われる所ではないだろうか

応援していた人が打ちのめされた時に、応援していた人も共に打ちのめされたのでは応援の「常に」の原則から外れる事になる。

 

いざというとき自分に何が出来るのか

これは応援する側もされる側も考えておかねばならない事だろう。

 

 

応援は一歩間違えれば相手を地獄へ導く事になるが、

その事を知っていればかなりの確率で地獄行きは未然に防げるのだ。

 

 

 

 

【重要】両者が持つべき心得

ここまで殆どは応援地獄の要因は応援する側にある。という立場で話したと思うが

実際、される側にも問題があるはずだ。

 

まず第一に心得ておくべきなのは

応援される事は当たり前では無い、という事だ。

だから感謝は忘れてはいけないし、

先程も言ったように「ありがとう」は最強の勇気付けの言葉であり、自信付けの言葉である。

 

応援が成功しているかどうかは、その感謝と実際の行動以外では応援する側は確かめる術がない。(行動には発言も含まれる)

応援が成功する事は、応援する側を応援する事にもなるのだ。

 

応援は質や量によってもそれが持つ力は変わるが

応援は継続する事でも力を増す。

 

継続するためには、互いに応援しあう事が重要なのである。

つまり応援される側はする側を

感謝と行動によって応援できる

という事を知っておくべきだ。

同時にそれが目的になってもいけないという事も両者がしっかり覚えておかねばならない。

 

応援において一番大切なのは信頼関係だ

信頼無くしていい応援関係はあり得ない。

応援が負担になっているのであればそれを相手に伝えられる信頼関係こそが、応援の本質でもあるはずだ。

負担になっていると伝えられて気を悪くするようならあなたは応援など出来ていない。

それは単なる自慰行為だ。

相手が歩きやすくなって初めて応援している事になる事は覚えておかねばならない。

 

最後に

最後にひとつ、言っておきたい事がある

 

人は応援が無くても頑張れるが、孤独では生きてさえゆけない

 

想像して欲しい。

信頼できる人が側にいてくれるだけでどれほど強くなる事が出来るか

どれほど生きる力が湧くことか

歩くことに一番必要なものは道ではない、生きる力なのだ。

 

 

ここまで読んでくれてありがとう

あなたのおかげでここまで書くことが出来ました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Fin.