写真の良いところは、何を言ってるか分からなくていいところである。
これは小難しい話じゃなく、書いて字のとおり、
音が無くてもいいという事である。
何気ない日記が誰かの心の拠り所になったりもする。
人は興味のない話を聞きたくなったりもする。
大切なのは書き手が、その人が書かなくていいものを書かない事である。
何故なら正しさでもかわいさでもなく、ただ自分の中に無いものを求めたりするからである。
文章の面白さというのは内容も技術も大切だが、究極には書き手のスタイルが大切である。
美術でいうところの様式、文学のほうでは文体という。
文体は中々操れたものではない。
滲み出るような、滲み出てしまうというようなものなんやな。
細かく思い出せないけど心の師、谷川俊太郎さんがそのようなこと言ってたし、
他にも色んな人が言ってたと思う。
文章を書く時はとにかく自分の物差しで計って欲しい。
繰り返すようだが人が言葉に求めるものは正しさでも可愛さでもなかったりするからだ。
間違ったことを言っても大丈夫だ。
フィクションは嘘ばかりだ。でも面白い。
桜の樹の下には
屍体 が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故 って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。『桜の樹の下には』
梶井基次郎
大好きな書き出しだが、嘘つきである。
でもめちゃくちゃ面白い。
確か中学の教科書にも載っていた気がする。
今も載ってるか知らないが、面食らった人は沢山いるんじゃなかろうか。
書いた本人が嘘を嘘だと知っているかどうかはあまり問題にはならないと思う。
それがただの日記であれ、小説でなかれ。
「書く」と願う人間からは凄味が出る
それは文体に必ず滲み出す。
その凄味こそ文章の魅力というものを担ぐ一端である。
これまでの学校教育とTwitterで何を教わってきたが知らないが、
まずは文章で言い切るという練習をするのがおすすめである。
自分を棚に上げてしまうのである。そして飛び降りてみるのである。
人は行き止まりと分かっている道へ進んだりしないが、
その行き止まりにも誰かの生活があって、
その人は、行き止まりであるが故に自分の生活にらしさを感じる事が出来るのかも知れない。
踏み込んでみないと分からない事ばかりである。この世は。
誰の心にも街があって、君の街で雨が降れば、その時暇つぶしに読める詩を、言葉を、
晴れてる街の人間が耕せばいいのである。
大げさに言うと日記を書くとはそういう事かもしれないし
Fin.