のぉ れいん のぉ れいんぼう

田邊裕貴の見た色々を雨のように、あなたの中に今まで無かったものを

のぉれ

天才たなべの大冒険

stay with you

おはよう

 

自分なりの考えを発信する事ってイケてるの?

とか思うことあって真面目な文章をしばらく書いてない気がします。

 

 

それは自分と対峙出来なくなった訳でも、討論が出来なくなった訳でもありません。

 

俺の思想なんか書いて、誰のためになるのだろう。いや、ならない。

という事なんです。

 

要因としては、発信する事の敷居がガン下がりしてるのに、発信の流行は今も昔もそう変わらないポジショントーク的な、お昼のコメンテーター的な、

 

そういう商売が溢れ返ってる事と、今自分が発信をしたとして、それらと差別化出来るのか?

 

出来ないとしたらそれはダサくないか?

 

という事です。

なにせ僕の書く記事の面白さというのは常にきっと「田邊裕貴であること」であって、

「個性を持つこと」ではない

 

でも「個性個性言ってる人」と「田邊裕貴らしさを語る人」の見分け、

読んでる人に求めるのは高度な事なんじゃないかと思います。

 

だって個性個性言ってる人にも名前があるし、その人はきっと自分というキャラクターを個性という偶像に重ねて話すだろうから、

 

側から見たら、「田邊裕貴らしさ」も「その人らしさ」も同じに見えたりするだろうなと思います。

 

「その人」の中に「田邊」は含まれても、「田邊」は「その人」ではない。

という事が大事にすべき物だと考えています。

 

という話をすると大抵の人の頭の中では

 

あ、こいつは「個性」の話をしとるな

 

となると思います。

俺だって自分の事でなければ、集中して読まなければ、その人をよく知らなければ

恐らくそうなるんだと思います。

 

 

 

俺の哲学に「そう思われたら負け」という言葉があります。

 

例えば俺の本質がチャラくなくても、他人からチャラいと思われたら俺はチャラいんです。

本質は人に見せる物ではないし、見せる事は出来ないけど、外装は本質ではないとは言えない。

だから負けです。何が勝ちかは知りません。

勝つより負けない事の方が大事。そういう人間です。

 

 

個性を語る事は俺のしたい事じゃない。

正直その段階って高1くらいで終わってた気がします。

 

でも今田邊裕貴を語ってもそのままは多分伝わらない。

負けなんです。だから違うアプローチが必要なんです。

 

今やInstagramを更新する事を発信とは呼ばないですよね。

でもきっと真面目にやってる側からするとnoteを書くのも、Tedで話すのも、Instagramを更新するのも真面目さに差は無いんだろうと思います。どれも高尚なんです。でも発信とは言わない。

 

つまり発信という言葉自体古くなっていて、昔のようにそれが高尚な物では無くなってるんです。

 

流行りの言葉で言うと「発信」はアップデート中なんだと思ってます。

 

俺の感じてるところとしては、

何故生きるのかの時代じゃなくて、如何にして生きるのか

ライフスタイルを考える時代ではなくて、ライフスタイルを実行する時代またはその方法。

 

皆が皆、そう問うてるように思います。

これからどんどん新しい言葉が、概念が、考え方というカルチャーが、生まれる気がしてます。

作る造る創る就く築く憑く著く

 

イケてるかどうか気にしてるってバレるとダサいので、格好良く生きようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Fin